No.468


【歴史】戦国時代初期 東海・関東 関係図

応仁の乱の頃の東海・関東の状況がわからない…

 ゆうきまさみ氏の「新九郎、奔る!」は応仁の乱から始まる。

 歴史物なので当然人名と地名が山盛りなのだが、その頃の東海および関東の勢力が頭に入ってないこともあって、読むのに難儀した。
 戦国時代の知識は適度にあるので聞いた家名や地名はあるのだけど、土地の位置や勢力の関係が理解できておらず、誰がなんで争ってるのか全く頭に入らなかった。

 というわけで、当時の状況を把握するために、状況をざっくりまとめた。
 完全自分用のまとめため、間違っている部分もあるかもしれない。ご勘弁。


主な国と支配勢力

主な支配勢力
常陸 佐竹氏
下総 千葉氏、結城氏、古河公方
上野 山内上杉家
武蔵 山内上杉家
相模 扇谷上杉家、山内上杉家
伊豆 山内上杉家、堀越公方
駿河 今川氏
遠江 斯波氏、今川氏
三河 足利氏(分家)
甲斐 武田氏(争乱状態)

上杉氏

 世襲の関東管領。応仁の乱時点では山内上杉が主家で関東管領を世襲している。

山内上杉家(やまのうちうえすぎ)

 上杉氏宗家。上杉氏を誅殺した鎌倉公方を今川と組んで追い出す(古河公方)。台頭してきた扇谷上杉家を討伐するが、関東の荒廃を招く。
 後に後北条氏に負けて越後に逃げ、長尾家出身の長尾景虎(のちの上杉謙信)に上杉家の家督を譲った

扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎ)

 上杉氏庶流。家宰の太田道真・道灌父子の時代に勢力を拡大し、相模国を拠点として急成長する。勢力を増す有能な家宰、太田道灌を誅殺したことで衰退していく。
 北条早雲と協力して上杉氏宗家の勢力を削ぐが、結果として相模を北条早雲に奪われてしまう。

太田道灌

 扇谷上杉家家宰。関東各地を転戦し政治も軍事もこなすスーパーマン。勢力が増しすぎたことで主人に誅殺される。

長尾氏

長尾景信

 山内上杉家の家宰の家筋。
 父の死により白井長尾当主となったが、山内上杉家の家宰は叔父が任命された。それを恨んで反乱を起こし、関東一円(相模から下総)を戦乱に巻き込むが、太田道灌などに攻められて古河公方の元に逃げ込む。
 その後は北条を頼ったりしながら数十年にわたり山内上杉家と戦い続け、結果として上杉氏の勢力を大きく衰退させる。そのためか北条早雲は景信をべた褒めしている。

古河公方

 鎌倉公方時代に父殺害の恨みから関東管領上杉氏を暗殺し上杉氏との全面戦争に突入。結城・里見・武田氏などと共に上杉氏及び堀越公方と長期間争う。幕府の命を受けた今川氏に鎌倉を占拠されたことで下総の古河へ本拠地を移した。これを持って古河公方と呼ばれる。
 後に後北条氏を味方に取り入れたことで、後北条氏に実権を握られてしまう。越後上杉氏と後北条氏の公方擁立争いの結果、だれからも利用価値がなくなり表舞台から姿を消す。

堀越公方

 幕府からの命により鎌倉公方になるためにやって来たが、関東諸勢力は古河公方への忠誠心が厚く、関東諸勢力の協力を仰げなかったことから鎌倉に入れなかった。やむを得ず伊豆の堀越に御所を造ったことから堀越公方と呼ばれる。
 細川政元、伊勢貞宗、日野富子と共謀して二男の清晃を足利将軍にすることに成功するも、自身の家督問題で伊豆を乱し、幕府の命を受けた北条早雲により滅ぼされる。

今川氏

今川義忠

 駿河守護職。伊勢家から妻を迎えたことで北条早雲との関係が生まれる。遠江侵攻中に討ち死し、駿河の内乱の引き金となる。

今川氏親

 義忠の息子。北条早雲の協力で小鹿範満を倒し、駿河守護となる。

北川殿

 駿河守護今川義忠の正室。今川氏親の母。北条早雲(伊勢宗瑞)の姉。

小鹿範満

 父親主導で兄の範忠と家督争いをして負ける。範忠没後に再び扇谷上杉家(太田道灌)の後ろ盾で家督争いを起こす。幕府から派遣された北条早雲の仲介により、家督代行となるも氏親成人後も家督を返さないことから駿河で内乱が勃発。北条早雲により鎮圧され滅ぼされる。

伊勢氏

伊勢貞宗

 伊勢宗家である伊勢伊勢守家の家督を継ぎ政所執事となる。北条早雲の従兄弟。

伊勢宗瑞(伊勢新九郎、北条早雲)

 後の北条早雲。後北条氏の始祖。
 伊勢備前守家の家督を継ぎ、幕府の命により駿河・伊豆で活動を行う。伊豆を平定後は相模へと進出し、これを平定する。その後も房総半島まで侵攻する。

後北条氏

北条早雲(伊勢宗瑞、伊勢新九郎)

 伊勢宗瑞を参照。北条氏を名乗ったのは二代目の氏綱から。

細川氏

細川勝元

 細川京兆家当主、室町幕府管領。応仁の乱の東軍大将。西軍大将は山名宗全。

細川政元

 変人として有名な細川京兆家当主。明応の政変で日野富子と組んでクーデターを起こして将軍をすげ替え、足利幕府の衰退を決定づける。将軍並の権力を手にするも暗殺される。